
「人が音を立てて変わる」瞬間に共通する4つのこと
こんにちは。企業変革パートナー/株式会社チェンジウェーブ佐々木裕子です。
先日、ある企業との打ち合わせで、
「人が大きく変わるには、どれくらい時間がかかりますか?」
と聞かれて、
私が目撃してきた「音を立てて変化した人々」の軌跡を思い出していました。
ただただ自分の目の前の仕事に「焦って」いたマネージャーが、
数千人の社員の人心を束ね、未来を見据えて組織を変革し、
大きく社会を変えるほどの経営者になるまで
・・・約4年。
「仕事がつまらない」「先が見えない」と不安と不満でいっぱいだった営業女性達が、「自分たちが会社を変え、世の中を変える」と決め、徹底的に今起きている問題の本質に向き合い、
20名以上の企業役員とマスコミが囲む中で、練りに練った渾身の経営提言を堂々とプレゼンし、
その軌跡を年始の日経の一面を飾るほどの美しい笑顔で締めくくるまで
・・・約5か月。
仕事は「言ったもの負け(=言ったら言質をとられてやらされる)」と言っていた力のある中途入社の社員が、
「この会社を本当に世界に通用する会社にする」と決め、その実現に向けて本気で行動を起こし始めるまで
・・・約3か月。
目の前の数字の達成とチームマネジメントに心血を注いできた営業マネージャーが、
本当にエリアの戦略責任を負うということは、どういう視界と深さでものを考えることなのかを痛感し、
自省の念で感極まって涙しながら、覚悟を決めて新しい一歩を踏み出し始めるまで
・・・約2日。
改めて振り返ってみると気付くのは、
誰ひとりとして、「少しずつ」変化していない。
変わったときは、パチンと音が鳴るように「短期間で一気に変化している」。
じゃあ、その「パチンと音がした短い時間」に、何か共通点はなかっただろうか。
そこに何か、リミッターが外れるときのメカニズムのヒントが眠っているのではないか。
そう思いながら、いろいろ記憶を掘り返してみると、
彼らには4つほど共通点があることに気付きました。
1.「短期集中」で、「考え抜いた答え」を「自分で」出さなければならないという、ものすごい「圧」がかけられていたこと
彼らは共通して、「これ以上本気の真剣勝負はない」というくらいの、ある意味の修羅場を、短期間で集中的に経験しています。
修羅場といっても、決してブラック企業的な意味合いではなくて、
「ちゃんと、ぎりぎりのところまで迫られている」ということ。
── つまり、一切逃げられない、こなせない、他責にできない環境で、短期間で自分の頭で、深く深く考え抜かなければならない。
例えば、「なぜなのか?」「具体的には何なのか?」「本当にそうか?」と、自分の思考の深さを徹底的に問われ続ける。
例えば、今の自分の経験とスキルでは到底こなせないと思うレベルの高い球を投げられ、その(疑似)責任を、極めて短期間でリアルに負う。
例えば、この数か月が「誰かが創った道を歩く人になるか」、「自分で道を切り開く人になるか」を自分自身が選択できる、ラストチャンスかもしれないと、ひりひり痛感しながら過ごす。
私の場合は、三十半ばで、次のステップが全く決まっていないうちに、前職を「辞める─!」と言ってしまったので、一番最後のパターンだったんだなあ、と振り返って思うわけなんですが(笑)
そういう環境に短期集中で晒されると、
「この辺でいいか」「あとで考えよう」なんていって作動させてきた「思考停止リミッター」が、パーンとはじけて軒並み外れていく。
逆に言うと、短期集中でなければもたないレベルの負荷をかけなければ、この思考停止リミッターはなかなか一気外れない、ということなのかもしれません。
2.その圧の中で、新しいチャレンジをしたり、新しい他者との接点を集中的に持っていること
この短期集中の「圧」はかなり強力なので、
一人で孤独に抱え込むとかなり辛い訳です。
しかも、ひたすら自分の経験や視界のなかで考え続けても、なかなか「一筋の光」が見えてこないことがある。
だからこそ、自分で必死に考えながらも、多くの他人の頭を借りる。
外に目を向けて新しい行動をしてみる。
例えば、
自分が尊敬するクライアント、友人、上司、更には外部のその道の一流の人と、「突撃」でもいいのでアポを取り、今の自分が必死で考えていることについて集中的に壁打ちさせてもらう。
例えば、これまでの自分だったら「無理だ」と思って全くやらなかったようなこと
─ 苦手だった人ととことん腹を割って話してみるとか、自分から動いて外部の人と新しい動きを仕掛けてみるとか─
を1週間以内にまずは試しにやってみる。
彼らのそういう行動は、
「世の中はこういうもんだ」という自分の中の固定概念を、
一気に打ち破る。
私自身は、「とりあえずハリウッドにいってみる」という訳のわからないことを
やってみて、本気で日本のテレビ局とハリウッドを繋いで映画ファンドを創ろうと思ったことさえあるのですが(笑)
その体験を短期間で積み重ねると、
結構、動いてみれば何だってできるもんだなあ、なんて思うようになるんですよね。
3.その間、涙が出るほどの「くやしさ」や「ショック」を味わっていること
例えば、ものすごく高い球を投げられて、今の自分では到底短期間では打ち返せなくて、ボロボロにダメ出しされて、「涙が出るほどくやしい想いをする」。
例えば、自分よりもはるかに先に自己変容を遂げ、強い想いを持って事業を動かしている入社同期の、揺るがない強さと覚悟を体感して、「コトバにならないほどのショックを受ける」。
例えば、「お前はゴキゲンな奴だから、深く考えずにずっとゴキゲンでやってればいいんじゃないの?」と、本当はそうありたいとは思っていない自分の今に、思いきり対峙させられて、くやし涙がでる。
「くやしい」という感情は、「自分には到底無理だ」と本当に諦めている人は感じないものです。
今はその実力がなくても、自分にはまだまだ秘められた力があり、その可能性を伸ばすことができれば、きっとできるはずだと感じるのが、「くやしさ」の本質。
だからこそ、本当に「くやしい」と心の底から思う経験をすれば、人は誰しもそこから必ず急スピードで這い上がってくる。
「本当にくやしい」という、自分に対する怒りにも似た感情がどれだけ自分の中に湧き起ってくるかは、自分が自分を急成長し続けられるコンディションに置いているかどうかのリトマス試験紙のようなもの。
自分にできる範囲、見える範囲にゴールを設定していないか。
自分に強烈な愛あるダメだしをしてくれる人はいるか。
自分が「くやしい」と思えるようなスゴイ人々は、自分の周りにいるか。
私自身も、自分の志を「これかな?」と自分なりに決めて尊敬する人に話したら、「そんなレベルの思考で決めちゃ、全然ダメ」と強烈なダメ出しをされ、自分が情けなくて毎晩体育座りで泣きながら過ごした経験があります。ホントに、くやしかったなあ(涙)。
でも、それがあったからこそ、今の自分がある。そう痛切に感じます。
4.その間、自分のポテンシャルを無条件に信じ、見守ってくれている人々がいるということ
多くの著名人を取材している雑誌の編集長さんに伺ったのですが、
名のある冒険家たちがリスクを恐れずチャレンジできるのは、
「必ず帰る家があるから」なのだそうです。
音をたてて変化をした人々が、短時間にかけられるものすごい圧に耐え、自分の固定概念に向き合い、くやしい気持ちから這い上がってこれた裏側には、
必ずといっていいほど、彼らの本当のポテンシャルを信じ、彼らが必要なときに自分の時間とマインドシェアを惜しみなく提供し、見守ってくれている人々の存在があります。
仲間。友人。上司。同僚。そして家族の存在。
短期間にものすごく圧をかけるというのは、
ある意味、崖からつき落として、這い上がってこい、
というような類の修羅場なわけです。
だからそのとき、
「這い上がれる人だけ這い上がって来ればいいんじゃないの。
自己責任だし。実力勝負・結果勝負なんだから」
っていうんじゃなくて、
ひとりひとりに、「必ずこの人は、崖の底から這い上がって来れる」と信じてくれている人がいるということ。
そしてそれを、本人がちゃんと「知っている」ということは、
最後の最後踏ん張れるかどうかに、大きく影響する。
人はたぶん、誰しも短期間で音を立てて変わることができる。
でも、たったひとりでは、決して変わることはできないんだな。
そう痛烈に思った次第です。